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すとう信彦(神奈川)

【すとう信彦プロフィール】

1945年旧満州大連市生まれ。1979年慶應義塾大学大学院博士課程修了。伊藤忠商事、東海大学教授、米国ジョンズホプキンス大学SAIS客員研究員などを経て、2000年より衆議院議員3期務める。外務委員会理事などを歴任。新しい民主主義のありかたを追求し新しい政治運動として共和党を立ち上げ活動。著書に「政治参加で未来をまもろう」岩波書店2006年、「次の日本へ」-共和主義宣言ー   鳩山友紀夫氏との共著   詩想社2019年、「人新世を生きる君たちへ-次の日本への教育改革ー」次の日本への教育会議編 あけび書房2021年。

Facebook : nobuhiko.suto.3

Twitter : @sutoband

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すとう信彦ってこんな人です。

こ出生:1945年4月5日 旧満州・大連市

誕生直後に父は招集されて、終戦と同時にシベリア抑留へ。ソ連軍の侵入と戦後の混乱のなかで、一歳以下は手足まといになるから殺されることになっていましたが、運よく引き上げ船で帰国できました。栄養失調で結核にかかり、何度か生死をさまよいましたが、何とか生き抜きました。シベリア抑留から帰った父が、小生があの時代に生き抜いたことを知り、本当に驚いたそうです。

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(大連にて、母と)


慶応義塾大学卒業後、伊藤忠商事に入り、アフリカ・中東で灼熱商人をしました。写真はアルジェリアの天然ガスプラントです。我々が作ったプラントは現在でも健在で、ガスを輸出し、アルジェリアの国家財政を支えているそうです。誇らしい気持ちになります。

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(アルジェリアのスキクダにて)

アルジェリアの激烈な経験から、国際社会の厳しさとそこで生き抜く知識と知恵を学びました。

そこで密かに勉強を始め、帰国後大学院へ、そして最終的に東海大政治経済学部教授として25年間教職についていました。その間、研究者としては危機管理や国際経営でそれなりの成果をあげ、国際社会でも活躍することが出来ました。やがて国際紛争解決と平和構築のNGOインターバンドを立ち上げ(1992年)、大学教師の傍ら、世界各地で紛争解決に当たりました。

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そのころ、紛争は一時的に終息しても、やがてまた社会が混乱して紛争が再発することを理解し、社会を安定させる要素として民主主義システムの重要さを知り、世界のNGOと協力して、紛争地で選挙監視と民主化支援に従事しました。まあ、それが後に政治家を目指すことにつながったのでしょう。

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(インドネシア・西ジャワにて)

紛争は多様な理由で長期化します。民族対立や地域対立だけでなく、地震などの自然災害や埋設地雷の存在なども深刻です。しかもそういう紛争要素が複雑に絡み合っているのです。

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(カシミールでの巨大地震調査)

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(カンボジアでの地雷影響調査)

2000年に当時の民主党から出馬して、途中落選もありましたが、衆議院議員を三期務めました。主たる活動の場は外務委員会ということになります。


その間もライフワークである紛争解決と平和構築に活動しました。NGO時代と異なり、紛争する国家の中枢との交渉などにも日本の政治家として乗り出したのです。

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911テロ後、2001年アフガニスタンにて(鳩山友紀夫氏とともに)

アメリカのイラク攻撃が現実化する状況の中で、何とかイラク政府側に妥協の道を模索させようと何度かバクダードに入り、イラク国会議長、ナンバー2のラマダン副首相とも協議しましたが、結局は戦争になってしまったのは、今でも残念に思います。実は当時、イラク側はどんなに妥協しても、結局、アメリカはイラク攻撃を開始するだろうと考えていました。そしてその通りになりました。


フセイン政府崩壊後もイラクに入り、デメロ国連特別代表と、イラクの平和再建について協議し、アメリカの占領統治以外の第三の解決策を模索しましたが、この写真の直後、デメロ特使もまたテロの犠牲となり、結局、イラクは統治能力を欠いたアメリカの占領政策の失敗によってイラクだけでなく、中東全域の不安定化を招いてしまったことは、返す返す残念な気持ちです。

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(ラマダン副首相との交渉)

2012年に落選して以後、紛争地に自らでかけることもなくなりました。それは資金不足や地元政治活動などに影響されたというより、1990年代のように紛争解決に個人の力を発揮できる時代から、アメリカを中心とする国家連合が和平のカギを握るようになり、個人が活躍する場が失われたことによるものです。
しかし、ロシアのウクライナ侵攻、ミャンマーの軍事クーデターなど世界は再び1990年代に近い混乱と紛争の地になろうとしています。
いまや後期高齢者になった私ですが、老骨に鞭打って、再び世界の紛争解決と平和構築に出ていくつもりです。

久しぶりにアルバムを取り出して昔の写真を見ると、何か紛争地ばかり行っているようですが、けしてそうではありません。地域のことも、日本社会の問題も長らく取り組んできました。
しかしまあ、振り返ってみれば、大学卒業後、よく働き、よく食べ、よく寝た人生でした。趣味も多様です。最近でもやっているのは、アウトドアと料理ぐらいですかね。。。一応、和洋中それにイタリアンとエスニック料理も作ります。パンも自分で焼くのですよ!

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